日本企業に何より求められる破壊的イノベーション その成功のカギは、知のイノベーター・博士人材の活用にある

京都大学 産官学連携本部

特任教授 山口栄一

1979年、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻修士課程修了、理学博士(東京大学)。日本電信電話公社、米University of Notre Dame客員研究員、NTT基礎研究所、仏IMRA Europe、経団連21世紀政策研究所、英ケンブリッジ大学クレア・ホールにて研究員などを歴任。2003年より同志社大学大学院ビジネス研究科教授、2009年から同志社大学大学院総合政策学研究科教授、2014年より京都大学大学院総合生存学館(思修館)教授、2020年より京都大学名誉教授。ハイテク・ベンチャー企業を5社創業、主な著書に『イノベーション 破壊と共鳴』『イノベーションはなぜ途絶えたか―科学立国日本の危機』『死ぬまでに学びたい5つの物理学』『物理学者の墓を訪ねる ひらめきの秘密を求めて』など。

アメリカを変えたSBIR、その驚異的な成果
なぜ博士は破壊的イノベーションを起こせるのか
日本の未来を救う博士人材
企業はCSOを設置し、博士人材にイニシアチブを取らせるべき
学位を取り起業せよ

日本発の破壊的イノベーションは絶えて久しく、ユニコーン企業も日本からはほとんど生まれていません。海外勢に比べ、日本企業が後れを取っているとも言える状況です。それでは、なぜ今日本で破壊的イノベーションが起こらないのでしょうか。

その理由の一つに、博士人材が活躍できていない点が挙げられます。かつて日本では、博士号は「足の裏に付いた米粒(=取っても食えない)」と揶揄されました。一方で中国は、世界中にいた博士人材を破格の好条件で呼び戻し、ユニコーン企業を輩出しています。アメリカでは80年代に立ち上げられた、博士人材の起業を後押しする制度が、90年代以降に成果を出しています。

なぜ日本だけが、博士を活躍させない国になってしまったのか。問題は博士人材を活用できない企業と、自らの能力を自覚できない博士にもある、と京都大学産官学連携本部の山口栄一特任教授は指摘します。そもそも博士が秘める能力とは何か、なぜイノベーションに博士の力が必要なのかを、山口先生に伺いました。

アメリカを変えたSBIR、その驚異的な成果

博士がイノベーションを担い始めたのは、アメリカが最初だそうですね。

山口氏:そもそも博士というシステムを完成させたのは、戦後のアメリカだと思います。ただ、博士号を取っても、それだけで飯が食えるわけではない。こうした状況は世界中どこでも同じだったのです。たとえば、アメリカでは博士号を取った人材のうち一握りのトップだけが大学に残り、あとは企業の中央研究所などを目指します。ところが80年代に入り、企業における基礎研究の衰退を予測した人物がアメリカにいました。この先見の明を持っていた人物、ローランド・ティベッツがSBIR(Small Business Innovation Research)という制度を立ち上げます。

SBIRとは博士人材のための制度なのですか。

山口氏:SBIRとは、博士による起業を後押しし、イノベーションを推進する制度です。イノベーションとは、科学の知を価値に変えることです。ところが、この考え方は大学の中でなかなか理解されませんでした。「(神聖なる)学問が何かの役に立ってたまるものか!」と反発する学者もいたようです。学問とは、人類にとって本源的な価値を創造するものであり、決して道具的な価値をつくるものではない…。このような学者の世界に、プラグマティズムの考え方を持ち込んだのが、ローランド・ティベッツでした。せっかく科学を極めた若者が数多くいるのだから、彼らの能力を有効に使わない手はない。学者になってもよいが、イノベーターになるという道もあると考え、議員立法によりSBIRを立ち上げました。

具体的にどのような制度なのでしょう。

山口氏:博士号を取得した若者たちに研究者ではない人生、つまりイノベーターとして生きる道を提供する制度です。まず自分の知見を活かして起業のアイデアを出した人に、1,000万円の賞金を出します(第1フェーズ)。そのアイデアで事業化に進めそうであれば、さらに8,000万から1億円ぐらいの資金を与えて、商業化に取り組ませる(第2フェーズ)。実用的な製品・サービスができれば、ベンチャーキャピタルを紹介する(第3フェーズ)。このプログラムが予想以上の成果を上げます。80年代当初にスタートし、結果を出し始めたのが88年ぐらいですが、SBIRはバイオ・メディカル分野に限っても、投入した税金の実に45倍もの付加価値を生み出しました。その中の1社が、タミフルやレムデシビルを開発したギリアド・サイエンシズ社で、同社を立ち上げたのは当時29歳だった無名の若者と彼のメンター3人(化学者、分子生物学者、医学者)でした。

なぜ博士は破壊的イノベーションを起こせるのか

博士だからイノベーションを起こせるのでしょうか。

山口氏:イノベーションには大きく2つあり、パラダイム持続型パラダイム破壊型に分けられます。パラダイム持続型は、既存のパラダイムを変えることなく、技術を改善したり、別の技術を組み込み統合したりして起こすイノベーションです。これに対してパラダイム破壊型は、これまでにまだ誰も見たことのない世界を新たにつくり出します。現状から予測される未来ではなく、非連続的な未来を創出するのです。これこそ、博士が何よりも得意とするところでしょう。なぜなら、人類の誰一人として気付いていなかった新たな知を見つけ出した人物こそが、博士だからです。逆に言えば、人類に新たな知をもたらさない限り、博士として認められることはありません。

学位を取る過程で、知のイノベーションを起こしているわけですね。

山口氏:同じ大学院生といっても、修士と博士ではまったく異なります。だからPh.D.は世界中どこでも通用する唯一の資格なのです。欧米では、政策立案者の多くがPh.D.を持っています。企業の経営者も同様です。ところが、日本では政策立案者はもとより、官僚の多くが、さらにはほとんどの政治家が博士号など持っていません。イノベーションに関して日本が周回遅れになっている大きな原因は、このあたりにあるのではないでしょうか。未知なるものに挑戦したことのない人が、新しい何かを生み出すのはそれほどまでに難しいのです。

欧米では企業も博士人材を採用しているのですか。

山口氏:アメリカの大企業に理系職種で就職しようと思えば、Ph.D.は必須条件です。学部卒は言うまでもなく、修士でも門前払いされます。ところが日本企業は、博士ではなく修士を採用しがちです。その理由はおそらく、博士よりも修士の方が使いやすいと考えるからでしょう。けれども、自社で使いやすい人物とは、自社の価値観に染まりやすい人物を意味するはず。そんな人物に、自社の価値観を否定する新たな価値をつくり出せるでしょうか。日本の経営者はイノベーション人材についての考えを改めるべきです。

なぜ博士は破壊的イノベーションを起こせるのか

日本の未来を救う博士人材

日本における博士の現状はどうなっているのでしょうか。

山口氏:大学は危機的な状況にあります。論文の発表数推移を見れば一目瞭然ですが、日本では新産業の創造を期待されている科学分野に限って2004年から論文数が急減しています。理由は、そのような分野における博士課程の在籍者数が減っているからであり、遠因は大企業中央研究所の終焉と国立大学の法人化にあるのでしょう。日本における科学力の低下は深刻です。

国立大学の法人化が大きなダメージを与えたのですね。

山口氏:大学の運営費交付金を2004年から2018年までに12%も削減し、今後もさらに削減するというのですから、とんでもない状況になるのは目に見えています。運営費交付金削減と同時に始まったのが、国家プロジェクトという名の「選択と集中」です。COEプロジェクト、グローバルCOEプロジェクト、リーディング大学院プロジェクトですが、これらにより、かえって日本の科学アクティビティーは深刻なダメージを受けました。

2020年3月まで教授を務められた京都大学思修館は、リーディング大学院プロジェクトの一つでは。

山口氏:グローバルリーダー育成を目指した思修館は、一定の成果を出しました。文系と理系の学生を集めて八思(人文・哲学、経済・経営、法律・政治、語学、理工、医薬・生命、情報・環境、芸術)を学び、5年間でさまざまな体験をさせる。この独特な文理融合教育により育まれた人材は、大きな可能性を見せてくれました。思修館の修了生からは国連関連機関でグローバルリーダーとして活躍する人やコンサルタント、さらにはベンチャー起業家も出ていて、当初の狙いを達成しています。

日本の未来を救う博士人材

企業はCSOを設置し、博士人材にイニシアチブを取らせるべき

論文数が急増し、ユニコーン企業も相次いでいる中国で、博士人材はどのような処遇を受けているのでしょうか。

山口氏:2002年に、青島の近くにある煙台へ視察に行ったときに目にした光景は衝撃的でした。中国は2000年ごろから世界中に散らばっていた博士人材を、かなり強引に呼び戻したのです。煙台は海沿いの町ですが、海辺に真っ白で瀟洒(しょうしゃ)な、別荘のような屋敷がズラッと並んでいました。1棟がだいたい200平米ぐらいの豪邸を、欧米から戻ってきた博士に無償で提供していたのです。

博士号を取った人と言えばまだ30歳そこそこ、破格とも言える厚遇ですね。

山口氏:さらに仕事用のインキュベーションオフィスも用意されています。これは50平米ぐらいですが、もちろん無償提供されます。やがて何らかの製品をつくるとなれば、オフィスの横に膨大な工場用地があり、何千平米もの土地を廉価で貸し出してくれる。まさに、イノベーションエコシステムとでも呼ぶべき体制を整えていました。その成果が2010年ぐらいから表れています。ちなみに、そのとき案内してくれた方に「私でも、ここに入れてもらえますか」と尋ねたところ、博士人材なら大歓迎すると言われました。あのとき決断していたら、私の人生も大きく変わっていたでしょうね(笑)。

アメリカの企業にはCSO(Chief Science Officer)というポジションがあると聞きました。

山口氏:CTO(Chief Technology Officer)に加えてCSOを置く会社が増えていて、いずれも博士人材が採用されています。そもそもシリコンバレーのベンチャーでは、創業者自身が博士であるケースがほとんどでしょう。CTOが担うのは技術であり、CSOが担うのは科学です。「知」をつくり出す知的営みが「科学」であり、「知」を統合して製品やサービスなどの価値に具現化するのが「技術」です。従って、CSOとCTOがそろっていなければ、破壊的イノベーション(パラダイム破壊型イノベーション)は起こせないと言えます。

日本企業でも中央研究所などでは博士人材を採用していたのではないのでしょうか。

山口氏:80年代からそうした動きはありましたが、90年代後半からは博士採用を見送るようになりました。そして基礎研究に力を入れなくなるのと機を合わせるように、日本企業はイノベーション創出力を失っていきました。今でも多くの企業が新規事業開発室をつくり、イノベーションを生み出そうと努力はしています。けれども、残念ながら多くの場合、研究人材、新たな「知」を創出し、それを「価値」に転換できる人材がイニシアチブを取っていません。技術に適した人材はいても、技術だけで破壊的イノベーションは起こせないのです。ただ、ここ数年で少し動きが変わってきました。特にバイオ関連では大企業による論文が増えていて、基礎研究の重要性が見直されているようです。大学とのオープンイノベーションに力を入れる企業も出てきています。今後は博士人材を活用する企業が増えてくるのではないでしょうか。逆にそうならないと、日本企業の未来は非常に暗いものとなります。

企業はCSOを設置し、博士人材にイニシアチブを取らせるべき

学位を取り起業せよ

日本でも博士人材の起業を支援する制度ができるそうですね。

山口氏:実は1999年から日本にもSBIRのような制度があったのですが、単なる従来型中小企業支援制度にすぎませんでした。これが完全にアメリカ型に転換されて、2021年4月から施行されます。博士人材の起業を支援する制度であり、私は2021年が日本の「サイエンス型ベンチャー元年」になると期待しています。

博士号を取得する若者が増えるといいのですが。

山口氏:もちろん望んだからといって、誰もが博士になれるわけではありません。未知への憧れがあり、研究の道へ進みたい。そう考える人はそれなりにいるはずです。けれども、未知をどうしても解き明かしたい、それができなければ生きていられないほどの熱意を持たないのであれば、博士課程に進むべきではない。その代わり博士論文を仕上げられれば、つまり人類に新たな「知」をもたらすことができれば、それは何ものにも代えがたい成功体験となります。

日本発のイノベーションを期待できそうです。

山口氏:極端な話、博士号を持ってさえいれば、国を捨てても生きていけるのです。博士人材が不要などという国や企業は、滅ばざるを得ないと思います。しかし、そういった状況に陥らないよう、日本の将来を憂える霞が関の若手官僚たちが努力して、SBIR改革法案を立ち上げてくれました。企業経営者も意識を変え、博士人材を活用できるようにならなければ、未来がないことを自覚してほしい。創造的な若者たちが、その力を存分に発揮できる場を用意されたとき、日本でもイノベーションが相次いで起こる。私はそう信じています。

学位を取り起業せよ

編集後記

博士といえば、とても賢くて専門分野には詳しいけれども、いささか融通の利かない人たち。そんなイメージで捉えられているのが、日本の実状なのかもしれません。欧米はもとより、飛躍的発展を遂げた中国においても、企業成長の駆動力となっているのは若い博士たちです。博士が秘める真の力とは、「未知なる何かをゼロから創出する能力である」という山口先生の博士観が、企業経営者たちの目を覚まし、さらには博士人材自らの気付きにもつながるよう、祈らずにはいられません。少子化が進む日本においても、博士人材を社会全体で後押しし、イノベーションを推進することで、未来がひらける国になる。SBIR改革法を立ち上げた若手官僚たちも、同じ思いに駆られていたのではないでしょうか。

(取材・文/竹林 篤実、撮影/MIKIKO、編集/竹林 篤実)