転居を伴う転勤をなくし、“選ばれる人”を目指す―制度改革がキャリア意識を変える
2018年、AIG損保では、従業員の望まない転居を伴う転勤をなくす方針を打ち出しました。保険・金融業界では、定期的に日本全国への転勤があるのが一般的で、ときには単身赴任を余儀なくされることもあります。出世を目指す総合職であれば、定期的な転勤は、転居を伴うものを含め欠かすことのできないものでした。ところがAIG損保は、望まない転居を伴う転勤を廃止し、中途・新卒の採用で多くの応募者を集めています。
どうして、社命による転居を伴う転勤を廃止したのでしょうか。そして、どうやってそれを可能にしたのでしょうか。そこには、価値観の変化に対応し、働く人たちの多様性を大切にしながら成長を目指す組織の挑戦があったのです。人事部門のトップである福冨一成執行役員にお話を伺いました。
「総合職に転勤は必須」その前提が変わってきている
福冨氏:大きな理由は2つあります。1つは、定期的な転勤によって、個人を育成するのが目的のひとつです。同じ職場に長くいると、慣れのようなものが出てきてしまいますしね。
そして、もう1つがコンプライアンス的な問題です。同じ地域に長く勤めることで、お客さまとの癒着が生じてしまうリスクがあります。金融機関では現金のやり取りが多いので、コンプライアンスの観点から、癒着が生じないようにするため転勤が必要だと考えられていました。
福冨氏:従業員から、「育児や介護などプライベートな事情があって、転勤ができない」という声が上がるようになってきたのです。中には「転勤をするなら、生活を優先するために会社を退職する」という声もありました。そこで社内でアンケートを行ったところ、6割の従業員が「勤務地を自分で選びたい」と答えたのです。
総合職は転勤を前提として雇用していますが、6割の従業員が「勤務地を選びたい」と答えているということは、そもそもその前提が変わってきていると言える。そこから、家族や友人と共に充実した人生を築ける職場環境を目指す「The Best Place to Work」というテーマを掲げて、議論を進めました。
福冨氏:同業他社を見ると、地域を限定して働く従業員と、全国転勤をする従業員に分ける形が一般的です。しかしその場合、全国転勤をする人のほうが、ポジションを上げていくときに必ず優位になる傾向にあります。そして、地域限定で働いている人は、活躍する場やポジション、報酬に制限がかかってしまう。
しかしそれでは、先ほどのテーマに合いません。私たち人事が実現したいことは、すべての従業員に適切な職務で活躍してもらうことなんです。そこで発想を転換して、全従業員の勤務地が地域限定になったら、どのようになるかを考えてみようということになりました。
そこでわかったことが2つあります。まず、個人の育成を転勤によって行うのは正しくないのではないか、ということ。確かに転勤で環境が変わるとコミュニケーションをとる相手は変わりますが、行う職務はそれほど変わりません。営業は営業のままです。
そして2つめが、コンプライアンスを目的とした転勤の役割は、時代としてもう終わっている、ということです。現場ではすでに現金を扱わなくなっていますし、一般的に、ここ数年で全体的なコンプライアンスの意識も上がっています。それで、転勤を見直そうということになったのです。
「全国転勤なし」で注目。採用はエリアに分けて行う
福冨氏:すべての従業員が希望の勤務地で働いたときに、滞りなく会社の業務を行えるかどうかです。特定の勤務地に人気が集中すると、会社が立ちゆかなくなってしまうのではないか、と思っていました。
そこでまずは、日本を13のエリア(現在は11)に分けて、全従業員に勤務を希望する都道府県とエリアを聞いてみました。すると、8割は勤務するエリアを選びたい、2割はどこでもよい、という結果が出ました。次に試験として、大阪で働きたいという人と、大阪を出たいという人30組の人事異動をしてみました。その結果、人を組み替えても仕事はできるということがわかったのです。
導入にあたっては、処遇の差があるかないかがカギとなりますが、当取組みに関しては、全国転勤可能なモバイル社員とエリア限定で働くノンモバイル社員で処遇の差を設けないということがコンセプトでした。もともと、人事制度に職務等級制度を設けており、たとえ支店長クラスであっても、モバイル、ノンモバイルともに、同じ職務等級なら同じ報酬になるため、こういったコンセプトの実現が可能だったのだと思います。
福冨氏:転勤のあるモバイル社員は負担が大きいので、そのぶん住宅の手当などを厚くしようということになりました。現在、社宅の家賃を6割ほど会社が負担していますが、全国転勤の人で希望のエリア外だった場合は、95%まで増やします。ノンモバイルの人は、基本住宅手当を一切なしにすることでコストのバランスを図っています。
区分 | 勤務地 | 報酬 | 住宅手当 |
---|---|---|---|
モバイル |
全国転勤が可能 |
同じ |
モバイル手当として社宅(希望エリア外の場合は95%)や全国転勤に関する費用相当の手当を支給 |
ノンモバイル |
エリア限定 |
同じ |
基本希望エリア・都道府県で勤務となるためなし |
住宅手当のメリットについてきちんと説明した後に行ったアンケートでは、モバイルとノンバイルの比率は、25:75くらいになりました。さらに2019年末に行ったアンケートでは、33:67程度に変化してきています。なお、新しい制度への移行は、2021年の10月1日に設定しています。
福冨氏:アンケートの結果では、東京と大阪が人気のエリアです。今まで新卒の採用を東京と大阪を中心に行ってきたので、ゆかりのある従業員が多いためでしょうね。それ以外の地域は、希望する人が少なくて若干定員割れの状態です
定員割れの場所にモバイルの人が異動するわけですが、本来ならすべての従業員が希望の勤務地で働くのが理想です。そこでいまは、採用活動を11に分けたエリアごとに行おうとしています。新卒はまだですが、中途採用ではすでに導入が進んでいます。
新卒については、全国転勤がないことを打ち出したら応募が10倍ほどになりました。注目度は上がっていると思います。
受け身のキャリア形成を脱却、自分でつくっていく機会に
福冨氏:キャリアパスについては、従業員への説明で「モバイルのほうがポジションにつける機会は広がる」と伝えています。なぜなら、モバイルは全国のすべてのポジションに応募できるので、単純に希望のポジションに就ける可能性が高くなるからです。
エリア限定のノンモバイルだと、そもそものポジションが限られています。ステップアップしていくためのポジションの見つけやすさに、違いがあるというわけです。
福冨氏:従業員の反響は、基本的にポジティブです。いままでは社命で異動が決まっていたので、キャリアづくりについて受け身的でした。新しい制度では自分自身でキャリアをプランニングできます。キャリア形成のための勉強として、「自分のキャリアを振り返りましょう」といったキャリアデベロップメントプログラムも研修に取り入れています。
また、会社にどんな仕事があり、どのようにキャリアを積み重ねていくことができるのかがオープンになっていなかったので、そういったものを従業員に示すドキュメントの作成もはじまっています。
福冨氏:「The Best Place to Work」というテーマは、社員が自ら考えてキャリアを作っていくためのものでもあります。従業員の多様性を大切にしながら持続的に成長していく組織となるため、一人ひとりが考えて行動する働き方に取り組んでいるのです。その先の理想として人事部では、すべての人事異動を社内公募だけで完成させることを目指しています。
社内では常に空いているポジションをオープンに募集中で、ポジション、職務等級、勤務地が合えば応募して、希望するエリアへ転勤できます。最終的に、すべての従業員が希望の地で働けるようになるのが理想です。
ただ、人気のエリアの募集になると、応募者が多くなるので、競争がはたらきます。多数の応募者から選ばれるには、常に自分を磨かなくてはいけません。一人ひとりが選ばれる人にならなければいけない、そういう厳しい側面もメッセージとして持っています。
そもそも、社命による転居を伴う転勤をなくすことが目的ではなく、一人ひとりのビジネスパーソンが適切に活躍できる場所「The Best Place to Work」を提供したい、と考えたときに転勤がじゃまになったということですね。
福冨氏:個人としては自分のキャリアを自分でつくっていくことが大事ですし、会社としてはその個人に活躍してほしいということだけなのですね。それがどこで一致するか。かつてのような転勤がなくなったので、いまはそれにチャレンジできるようになったのではないかと思います。
福冨氏:従業員が希望する配置を行うのが難しくなっています。残っているポジションとスキルの合う人が全然いないとか、スキルは合っていても本人の希望と合わないとか…。人を完璧に配置することがとても困難です。これまでの人事異動では、勤務地を無視して適したポジションへ配置するだけでできたのですが、勤務地が配置の要件に加わったことで、それが難しくなりました。
あとは地方での採用がまだ始まったばかりなので、求めている人材を本当に地方で採用できるのかという課題もあります。
いまは会社に求めるニーズが一人ひとり違ってきている一方、ビジネスの変化が激しいので会社が求めるスキルも変わってきています。会社のニーズと個人の働くニーズをどうマッチさせていくのか、人事部はいままでの人事管理的な考えから脱却して考えていく必要があると思っています。
今後は一人ひとりの従業員と、それぞれに合わせた働く契約を結んでいくような時代になるのかもしれません。それを社内7,000人、グループでは9,000人という大きな規模で、どうやって実現するのか、というのがこれからのチャレンジですね。
【取材後記】
「全国転勤なし」はただの人気取りの施策ではありません。その根本には、一人ひとりの従業員が活躍できる場所を提供する、という企業としての責務がありました。従業員にとっても、ただ働きやすくなっただけでなく、自分自身のキャリアをどうつくっていくのかを考えるきっかけとなっています。
従業員が希望するエリアで働ける制度は、まだ移行期間中で、2021年9月にすべての従業員の希望勤務地への異動完了を目指しています。このときAIG損保にはどんな変化が起こるのでしょうか。一人ひとりの意識が変わったAIG損保が、どのような進歩を遂げるのかが楽しみです。
(取材・文/森 英信、撮影/黒羽 政士、編集/檜垣 優香(プレスラボ)・齋藤 裕美子)