なぜ『阿・吽』は起業家の支えになるのか。孤独に耐える力と演出力を学ぶ

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平安時代の日本に新たな宗教をもたらした二人の天才・最澄と空海を描く、おかざき真里先生の漫画『阿・吽』(小学館、 監修・協力/阿吽社)。エリートコースを歩みながら権威と戦い、人を救うために教義を追い求める最澄と、己を満たすために教義を追究する姿が自然と人を引き付け、協力者を増やしていく空海という二人の対照的な人柄と生き様を描きます。第1回では、最澄や空海に学ぶ起業家や事業家の態度をまとめました。第2回では、自己演出力や孤独に耐える力といった具体的なスキルを紹介します。

【作品紹介】『阿・吽』(おかざき真里/小学館)

比叡山延暦寺の開祖である最澄と高野山を築いた空海。日本に密教をもたらした、平安時代に生きた二人の天才の執念と生き様を描く。

起業家・事業家は、空海の「自己演出力」に学べ

当時の先端知識であった密教を日本に取り入れ、根付かせようとした空海。現代の起業家が彼らから学べることは少なくありません。そのひとつが、空海の文字と文章を駆使した人を引き付ける力です。

嵐の中、中国本土にたどり着いた空海らを待ち構えていたのは言葉が通じない唐の地方を取り仕切る豪族。通行証を発行する長官に取り次いでもらえず、足止めされます。空海の乗った船の責任者が何度書状を送ってもはねのけた豪族を動かしたのは空海の書状。さらに空海を手元に置こうとする長官を心変わりさせたのも、空海の書状でした。文章の内容はもちろん、文章に合わせて工夫した文体や表現、そして美しい文字で人を動かし、長安に入ってからも空海の手紙は何度も彼の道を切り開いていきます。

起業家・事業家は、空海の「自己演出力」に学べ

©おかざき真里/小学館(『阿・吽』5巻P180)

TNM & TOPPAN ミュージアムシアターで開催されたトークイベント「『空海』徹底放談会」のリポート記事によると、おかざきさんは『阿・吽』を描くうえで、空海の自己演出力の上手さに着目されたそうです。その自己演出力とは、ドライな文章を書く一方で、文体や表現を工夫することで読み手に最大限の印象を与えようとしたものとのこと。

空海の演出力は文字と文章だけではありません。長安から帰国した空海は新しい仏教寺院を開きます。まだ知られていない新しい仏教を大衆に訴えるために用いたのは、炎が生み出す光と音、そして己の声です。それらによって海のモノとも山のモノともつかない密教への支持を集めました。

こうした自己演出・自己表現は今の起業家・事業家が求められるスキルのひとつです。手掛ける事業の中身が卓越したものであることはもちろん、競争の厳しい現在ではそれを投資家や社内、潜在的な顧客に浸透させる能力も不可欠です。自分のアイデアや事業内容を、いかに多くの人を引き付けられるように表現できるかがこれを左右します。現代の起業家も、空海のように自分の能力や製品・サービスを最大限魅せるスキルが必要です。

「犀の角」のように孤独に耐える覚悟はあるか

起業家・事業家に求められるものとして、孤独に耐える力も挙げられます。『阿・吽』の中では「犀の角(さいのつの)」として表現されます。

長安から経典や密教の一部を持ち帰った最澄ですが、自分を引き立ててくれた桓武帝は死亡し、既存の仏教勢力との対立も厳しくなります。自分の元で育てた弟子にも去られ、常に異端であることを突き付けられる最澄は、高みを目指して独り歩くことを求められます。

「犀の角」のように孤独に耐える覚悟はあるか

©おかざき真里/小学館(『阿・吽』10巻P156)

これはもともとブッダの言葉で、「犀の頭部の一本角のように、独りで自らの歩みを進めなさい」という意味。インドサイは群れではなく単独で行動するといい、「犀の角」という比喩表現は孤独を意味するそうです。少なくとも作中では、最澄は好きで孤独を選んだわけではありません。むしろ全員を救おうと生き急ぐあまり、周りがついていけなくなり結果的に孤独の道を歩むことになるかのように描かれます。子どものころから期待された天才である最澄は、より高みを目指そうとするあまり弟子らにも自分が置き去りにされているように思わせてしまうのです。

こうしたことは起業家や事業家にも起こりうることです。特に誰も見たことのない新しいことに取り組もうとするとき、それをすぐに受け入れてくれる人は限られます。やり方や周りへの態度を間違えれば、それまでついてきてくれた人に見限られ、孤立することも少なくない。そうした局面でも最澄のように世の中のために必要なことだと思って続けることができるのか。起業家を含む経営者にはこうした胆力が求められます。

起業家や事業家こそ、同じ道を進む仲間が必要

新しい製品やサービス、考え方の導入には反発も多く、ときに敵を作るもの。上記のように孤独を歩む覚悟と胆力が必要ですが、それ以上に同じ道を進む人を見つけ、仲間とすることも求められます。

例えば『阿・吽』の中で最澄は、開宗した天台法華宗がありながら年下の空海に弟子入りします。時間制限で自身が長安で学べなかった密教を学ぶためです。密教を学ぶことは当時の日本で最澄自身だけでなく、国からも求められていたことでした。

起業家や事業家こそ、同じ道を進む仲間が必要

©おかざき真里/小学館(『阿・吽』10巻P221)

一方、長安で現地の僧から託された密教の芽を日本に根付かせるため、同じ目線で進むことができる存在を求めていたのは空海も同様です。作中では空海は暗に最澄に同じ道を歩むことを求め続け、最終的に弟子として迎えることになります。

また、同じ道を歩む人を見つけることは、その分野への理解を深めることにもつながります。これは『阿・吽』では、仏教の教義への理解というかたちで描かれます。当時の仏教の教義の理解は、経典の精読や僧同士の問答を通じて、深めるものでした。空海や最澄を中心に作中ではひとりで教義に向かい合う姿が描かれることが多いのですが、ときに誰かと一緒に教義を理解しようとする姿が描かれます。

例えば空海は長安の般若三蔵(はんにゃさんぞう)のもとで、ともに長安に渡った僧である雲仙(うんぜん)とともに密教の教義に潜り込みます。このとき雲仙は教義の理解において、初めて自分が越えられないと思っていた壁を越え、かつて真理を追究していた熱意を思い出します。空海と最澄の間でも、ともに教義の世界へ没入することで真理に近づこうとする姿が描かれます。いずれの場合もそれまでの壁を突破し、より対象への理解を深められる瞬間です。現実の社会であれば、製品やサービスの問題点や改良点を見つけ、より進化させることにつながるでしょう。

自己演出力を通じて自分を支持してくれる人を見つけても、それだけで手掛ける事業を進展させられるわけではありません。事業を理解し、一緒に前進する人がいてこそサービスや製品も進化することになるのです。

作中では、「犀の角のようにただ独り歩め。」のあとには「もし汝が、<賢明で協同し、行儀正しい明敏な同伴者>を得たならば、あらゆる危難に打ち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、彼(か)とともに歩め。」とも続きます。『阿・吽』の中では空海と最澄はそれぞれの才がゆえに別の道を見続けて歩むことが暗に描かれており、「同伴者」になるのかはまだ作品が連載中のためわかりません。しかし、作中では紆余曲折を経てそれぞれ同伴者を得たキャラクターは数多く登場します。現実社会でも厳しい道を行く起業家や事業家こそ、同伴者が不可欠なのです。

【まとめ】

自己演出力に長け、「人たらし」ともいわれる魅力で協力者を集めていく空海。常に異端であることを突き付けられ、高みを目指して独り歩く最澄。彼らの歩みと執念は1000年以上たった現代の起業家にとっても、良きお手本だといえるでしょう。仕事で少しめげそうになったときには作品を読み、困難を乗り越える活力をもらってみてはいかがでしょう。

【連載一覧】
第1回「『阿・吽』が描く空海・最澄の生き様から、起業家が学ぶべき3つの視点」はこちら

文/bookish、企画・監修/山内康裕