戦国武将から学ぶVol. 1 織田信長「信長の合戦に見る人材活用術」

有限会社ベルウッドクリエイツ 代表取締役

戦国プロデューサー 鈴木 智博【寄稿】

戦国歴史による地域活性化やコンセプトデザイン、イベント企画やゲームの監修など、年間数多くの事業を行う。株式会社地域歴史活性化研究所 代表取締役/株式会社アルテクスアソシエイツ 取締役/鈴木商事株式会社 代表取締役。

信長の「桶狭間の戦い」による学び―事前の戦略と備え
身分や出自にこだわらず、成果を出せば評価する
常識にとらわれないことは、時に周囲に恐怖心を与える

「日本史の中で最も優れたリーダーは?」と聞かれると、『織田信長』が頭に浮かぶ方は多いだろう。「彼は実際に何をどのように変えたのか?」と問われれば、あらゆる事績を挙げることができる。そして、そこには常に信長流の人材活用術があった。織田家ほど多様な人物が活躍した大名家は珍しいのではないだろうか。通常、どの大名家でも、一門や譜代を核とした組織がつくられていた。ところが織田家は、その規模と状況に応じて、適切な人材を身分や出自にかかわらず登用している。

※本記事は、戦国プロデューサー 鈴木 智博氏に寄稿いただいたものです。

信長の「桶狭間の戦い」による学び―事前の戦略と備え

信長の合戦として、その名を一躍有名にしたのは「桶狭間の戦い(桶狭間合戦)」である。

東海一の弓取りとして知られていた今川義元は、総勢2万5,000とも言われる大軍で、信長の領内へと侵攻を開始する。対する織田方の砦はどんどん落とされ、残された兵はわずか3,000と圧倒的な兵力差が生じていた。信長の居城であった清州城では、籠城論が展開されるも結論が出ずにいたが、寝所に入っていた信長に、義元の陣が桶狭間で休息しているとの情報がもたらされる。

信長は飛び起き、身支度を整えて出陣する。慌てて集まった諸将と共に、2,000の兵で義元の陣へ攻撃を開始し、運よく降った豪雨の影響もあり奇襲が成功する。この戦の一番の功労者は、義元の首を取った毛利新助ではなく、重要な一報を入れた簗田政綱だったというのが定説となっている。しかし実際には、簗田政綱はそれ以降、信長からの重用はなく、主立った働きもない。

つまり、桶狭間の戦い(桶狭間合戦)における戦略は、信長にとって当たり前の選択肢であり、そこで別段評価すべき人物もいなかったものと思われる。籠城戦は、援軍の到着を待って挟み撃ちにする「後詰め」が常道である。しかし、当時の今川家を敵に回してまで、織田のために、しかも城の囲みを解くほどの大軍を送れる大名は皆無だった。そこで信長は、各砦に少数の兵を入れながら義元本隊の位置を特定し、乾坤一擲(運を天に任せて大勝負に出るといった意)の勝負に出るしか選択肢がなかったのである。素晴らしきは信長の冷静な判断力と冷徹な決断力である。味方に犠牲を強いながらも、肉を切らせて骨を断つという賭けに出て勝利した。そして信長はこのような戦い方を生涯二度としなかった。「まず勝って後に戦う」(孫子の兵法)の通り、以後の戦いでは負け戦に学び、勝ち戦のための備えを怠らなかったのである。

身分や出自にこだわらず、成果を出せば評価する

では、信長が実際に人材登用による勝利をもぎ取った画期的な合戦とは、どのようなものだろうか。

身分や出自にこだわらず、成果を出せば評価する

「第一次木津川口の戦い」は、大坂石山本願寺(今の大阪城の地)を巡る戦いで、毛利が本願寺の要請を受け、海上から直接、石山本願寺内へ兵糧を補給するという作戦であった。織田水軍は伊勢志摩を中心とした海賊衆(いわゆる水軍)300隻、対する毛利水軍は瀬戸内海を中心とした村上・乃美水軍800隻である。

毛利水軍は当時日本最強と言われた水軍で、焙烙玉(手りゅう弾のようなもの)を次々と投げ込んで安宅船を焼き払い、小早船で縦横無尽に織田水軍を蹴散らした。大敗した織田水軍の中にあって、戦場から生還したのが九鬼嘉隆である。信長はこの嘉隆と一計を案ずる。

「第二次木津川口の戦い」では、村上武吉率いる毛利・雑賀水軍600隻に対し、信長はなんとわずか6隻のみを派遣した。圧倒的な戦力差に見られたが、これには綿密な計算があった。その6隻とは世界初の鉄張り船であり、長銃と大砲を装備している巨大鉄船であった。一般的に鉄甲船と呼ばれるこの船は、鉄は水に浮かばないと思われていた当時の常識を覆した水上要塞である。

毛利水軍は、この謎の船を警戒しつつも焙烙玉で攻撃を開始したが、鉄張りのため焼き払うことができない。やむなく接舷による切り込みを試みたが、巨大な要塞には大量の鉄砲が装備され、さらに大砲が大将船に狙いを定めて砲撃してくることで指揮系統が失われた。

その後、孤立した石山本願寺は開城を決意し、10年にわたる石山合戦に終止符が打たれた。

この戦いで、九鬼嘉隆は海賊大名として大出世を果たしている。信長による奇抜なアイデアと、それを実践できる鮮やかな人材の登用であった。組織の中の優れた人材に権限と資金を用意し、期限を決めて委任したのである。

「燃えない船をつくればよい!」
信長の戦いは、常に敵味方の分析を行い、それに対する解答とアイデアを常識にとらわれることなく、シンプルに導き出す。組織にそれが実現できる者がいれば、身分や出自にかかわらず活躍できるための場をつくり、成功すれば相応の評価を下す。これこそが、下剋上というシステムの本質的な自由度がなせる改革であった。

そして信長はこの戦いの後、佐久間信盛と林道勝を追放処分している。両者ともに尾張時代より仕えてきた譜代衆であったが、佐久間は対本願寺戦での無策と不手際を、林は過去の裏切りとその後の不十分な成果を責められての処分であった。どちらも突然の出来事で当事者や周囲の者は驚かされたようだが、信賞必罰においても忖度がないのが信長という人物であった。

常識にとらわれないことは、時に周囲に恐怖心を与える

現代人のわれわれが、英雄信長のような人物に学ぶというのはいささかハードルが高く思われる。しかしながら、凝り固まった組織の中で本質を見抜く力と、それを実践する行動が導き出す結果には注目すべきである。

下剋上の風潮は、がんじがらめになっていた戦国期の社会システムや通念を破壊し、誰もが立身出世を目指せる気運を高めるのに役立った。特に織田家においては、見事なまでの女性の活躍が記録として残っている。女性の立場が低かった当時において、織田家ほど女性たちが政治や人事に介入していた大名家は珍しい。この風潮は豊臣秀吉、徳川家康にも引き継がれていくのである。

信長という人物は、目的達成のためには常識にとらわれないシンプルな答えを実践する力に長けていたが、同時に自分とは違った考え方を持つ人間に対しては興味がなかったようである。

彼の天才的な考えを理解し、それを実践してきた羽柴秀吉や柴田勝家などの「織田家宿老」(役員たち)が各方面軍として自立したとき、信長の下には一時的に補佐する人物が明智光秀だけとなってしまった。その光秀によって、信長は本能寺で壮絶な最期を遂げたのである。シンプルで常識にとらわれない決断とは、時に周囲の人々に緊張感と恐怖感を与えるものであって、この点においては歴史に学び、失敗しない人材管理をしたいものである。

【まとめ】-偉人に学ぶ-

織田信長がここまで大成したのは、以下のことがポイントだったと思われる。

・物事の本質をシンプルに捉えた
・身分に関係なく、成果を出した人を正当に評価した
・過去の風習や常識にとらわれず、奇抜なアイデアを出していった

もちろん、これらの考え方に付いていけない者も多く、そのために信長は道半ばにして全国統一を果たせなかった。しかし、このようなスタンスを明確に掲げていけば、それに共感する者が集まるようになり、組織が強化されることも考えられる。企業理念やビジョンを発信し、浸透させることは非常に大事なことである。

(寄稿/戦国魂プロデューサー・鈴木智博、イラスト/©墨絵師御歌頭)