戦国武将から学ぶVol. 5 「人材管理に優れた近江出身の武将たち」

有限会社ベルウッドクリエイツ 代表取締役

戦国プロデューサー 鈴木 智博【寄稿】

戦国歴史による地域活性化やコンセプトデザイン、イベント企画やゲームの監修など、年間数多くの事業を行う。株式会社地域歴史活性化研究所 代表取締役/株式会社アルテクスアソシエイツ 取締役/鈴木商事株式会社 代表取締役。

戦下手と思われた「石田三成」が、関ヶ原合戦でまさかの善戦を見せた理由
7回も主君を変えて、当たり前を体現した「藤堂高虎」の真価

戦国時代後期になると、領国経営も合戦も組織化の力が求められ、まさに総力戦の体を成してきた。武辺者が活躍する時代から、政務に長けた官僚タイプの知将が頭角を現している。

若いころはかぶき者、槍の又左(やりのまたざ)と言われた猛将・前田利家も、そろばんの技術を身に付け、見事文武両道の経営者へと成長している。名だたる大将の中でも特筆すべきは、近江出身の武将たちである。彼らは卓越した頭脳だけでなく、人材管理に対する意識も非常に高いのだ。

※本記事は、戦国プロデューサー 鈴木 智博氏に寄稿いただいたものです。

戦下手と思われた「石田三成」が、関ヶ原合戦でまさかの善戦を見せた理由

天下分け目の合戦として知られる関ヶ原合戦は、実力者徳川家康に対して、石田三成(いしだみつなり)ら西軍が蜂起し、虚々実々の駆け引きの末、両軍が関ヶ原に着陣した。

兵力だけで言うとほぼ互角に見えるが、当初から東軍(徳川方)に心を寄せていた諸将も多く、積極的に合戦に参加していた者は少なかったようだ。

その中でも、三成の軍は最後まで善戦し、幾度も敵の猛攻を押し返している。かつて戦下手と思われていた三成は、いかにして強い組織を得たのであろうか。

「治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」とうたわれたように、三成(治部少)の家老・島(嶋)左近の存在は欠かせない。

一説には、当時4万石の小大名であった三成が、家禄の半分と三顧の礼をもって家臣に迎え入れたと言われる名将で、いわゆる戦のプロである。武人であるばかりでなく、戦術眼にも優れていたため、石田軍の軍師としての役割を担ったとされている。関ヶ原前哨戦である杭瀬川の戦いにおいて、東軍に勝利して大いに士気を上げるも、家康本陣への夜襲は三成に却下されたようだ。

関ヶ原本戦では序盤に負傷するも、再度出撃、死に迫ったその形相は「鬼左近」と呼ばれ、戦後徳川方の兵はあまりの恐ろしさに左近の甲冑(かっちゅう)や旗指物などを覚えていなかったという。

「士は己を知る者の為に死す」と言われるが、左近ほどの将であれば、石田家以外にも仕官先はあったに違いない。三成のひたむきな心が、報酬ではなく左近の心を捉え、関ヶ原での働きにつながったのであろう。

戦下手と思われた石田三成が、関ヶ原合戦でまさかの善戦した理由

イラスト/©墨絵師御歌頭

さらに、石田軍の中核には、舞兵庫(まいひょうご)・蒲生郷舎(がもうさといえ)・蒲生頼郷(がもうよりさと)・杉江勘兵衛(すぎえかんべえ)・磯野平三郎(いそのへいざぶろう)・入江権左衛門(いりえごんざえもん)・小幡信世(おばたのぶよ)など、名のある武将が家臣となっている。

彼らは勇猛で知られた武将であったが、それぞれに共通点があった。

実は、秀吉による天下統一事業の中で、図らずも浪人した者たちであったのだ。

秀次事件に連座したとして処分された豊臣秀次の家臣や、若くして病死した蒲生氏郷の後継者問題で減封となった蒲生家の家臣たちである。三成は秀吉の命による厳しい処断を行いながらも、裏で救いの手を差し伸べていたのだ。

三成によって救われた者たちの多くは最後まで三成に従って戦い、ある者は玉砕し、ある者は三成を助け、ある者は味方の撤退という密命を帯びてそれぞれの忠義を示した。

このとき戦に負けはしたが、極限状態となった際にも、勇猛果敢に戦える組織をつくり上げたと言えるだろう。

7回も主君を変えて、当たり前を体現した「藤堂高虎」の真価

関ヶ原合戦で敗れた西軍諸将の多くは取りつぶしや転封・減封を受け、生き残った者も徳川政権下では外様として厳しい重圧の中、藩政運営を行うことになる。

その中でも、特筆すべきは藤堂高虎(とうどうたかとら)である。

高虎も近江出身武将として、当初浅井長政(あざいながまさ)に仕えていたが、主家滅亡に遭う。その後、阿閉貞征(あつじさだゆき)を主君とし、同僚には渡辺了(わたなべさとる)のような名物武将もいたという。その後、元浅井家家臣・磯野員昌(いそのかずまさ。当時織田家)に八十石で仕えている。

員昌は信長に仕え、信長を暗殺しようとした杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅぼう)を捕縛し危機を救った人物で、猛将として知られた武将である。しかし、信長の怒りを買ったことで、突如高野山に出奔してしまう。代わりにその地には信長の甥である津田信澄(つだのぶずみ)が入り、おそらく高虎もそのまま主君を信澄にしたのだが、ほどなくして在野となっている。

次に仕えた主君は羽柴秀吉の弟・秀長であり、秀長の慧眼(けいがん)により瞬く間に出世を果たす。秀長が死去した後は秀保に仕え、秀保が早世した際高野山へ隠居を決意する。

しかし、築城の才を惜しんだ秀吉に呼び戻され、直参大名として仕えることとなる。紀州征伐や朝鮮出兵でも活躍し、水軍を指揮するなど多彩な才能を発揮した。

秀吉の死後は徐々に家康に近づき、秀頼の元を離れて家康に仕えている。高虎は家康との親交が深く、家康は高虎の築城術を高く評価していたとされる。かつて聚楽第の邸内に徳川屋敷を作事した折、引き渡された家康が設計図と実物が違うと指摘したところ、高虎が設計上の不備に気づき、独自の判断で設計を変更し、さらには費用を自身で負担していたのだ。

家康の身に万が一のことがあっては太閤殿下の面目が立たない。ご不興であれば手討ちにしていただきたいという高虎の心遣いは、家康の心に刺さったのである。

風見鶏として嫌われる傾向にある高虎だが、義に厚い武将としても知られている。高虎自身は味方を裏切ったことはなく、かつて共に苦労した渡辺了や旧主である磯野員昌の子・行信(ゆきのぶ)を家臣として取り立てて恩に報いている。

【まとめ】-偉人に学ぶ-

高虎が記した「高山公御遺訓」を参考にしつつ、三成の事績から要点をまとめてみる。

・本当に欲しい人材を獲得するべきときは、投資を惜しまない。
・人は金銭だけでなく、その裏に信義があれば、苦境のときでも力を尽くしてくれる。
・人を見る目がない主人は見限ってよい。逆に有能な人を見つけることができず、周りにゴマすりだらけの者ばかりになると、やがて組織崩壊を招くであろう。
・一寸の虫にも五分の魂という。人を見かけや肩書などの大小で見下してはならない。

三成と高虎、それぞれ武将のタイプは違えど、家に仕える人物をしっかりと評価し、手を差し伸べ報いることで、部下のロイヤルティー(忠誠)を得ていたのである。そして、その尺度で自分自身にも厳しく戒めていたからこそ、天下人の信頼を勝ち得たのではないだろうか。

(寄稿/戦国魂プロデューサー・鈴木智博、イラスト/©墨絵師御歌頭)