戦国武将から学ぶVol. 4 「改革者!?中途採用、明智光秀の挑戦」

有限会社ベルウッドクリエイツ 代表取締役

戦国プロデューサー 鈴木 智博【寄稿】

プロフィール

応仁の乱以降、全国各地で実力を付けた戦国大名は、己の領国経営のため次々と「分国法」と呼ばれる自前の法律を立てて支配体制を固めていった。

天下布武を掲げてまい進していた織田家にあって、新参者の明智光秀は中途採用にもかかわらず異例の出世を遂げていく。かつて信長に歯向かった柴田勝家、人たらしと言われた羽柴秀吉、はみ出し者だった前田利家、異能で採用された滝川一益などのそうそうたるメンバーの中で、どのように駆け上がっていったのだろう。

※本記事は、戦国プロデューサー 鈴木 智博氏に寄稿いただいたものです。

チャンスを待ちスキルを磨く日々

光秀は若くして浪人している。一説によれば、斎藤道三側に属したため、敗戦後に領地を追われたという。従って、最も働き盛りであった青年期に、武将としての活躍の場を逸してしまっていた。

当時、光秀は隣国の越前朝倉家に仕えていたが、『信長公記』の筆者である太田牛一は、「越前国へ羆越致奉公候ても無別条一僕の身上にて羆越信長公を奉憑一万の人持被成候」、つまり朝倉家に仕えてはいたが、身分は低く、信長に仕えるまでは日々の生活にも事欠くありさまであったようだ。

しかし、彼はその間を無為に過ごしていたわけではなかった。朝倉家はかつて朝倉宗滴(あさくらそうてき)という武将が家中を切り盛りし、隣国にもその名将ぶりが通っていた。宗滴は戦上手で知られ、彼の存命中は他国も手出しができず、外交においても才能を発揮し、将軍家によく支えていた。後に信長が手にする名物「九十九髪茄子」(つくもかみなす。茶入)を所有し、領内振興のために多くの文化人や剣豪を招いて当代一流のサロンをつくり上げたという。

朝倉家分国法「朝倉孝景条々」によると、「朝倉家に於ては宿老を定むべからず。その身の器用忠節によりて申し付くべき事」。つまり、朝倉家では幹部ですら実力と忠誠心によって採用するという革新的な気風があった

光秀が越前に落ち延びた際には、既に宗滴は没してはいたが、足利将軍家につながる人脈や作法・教養などを身に付けるチャンスはあったに違いない。

身分の低い彼がどのようなきっかけでそれを身に付けたか詳しくはわかっていないが、不遇な時代にあっても、いつか活躍できる日を夢見て、己のスキルを磨いていたに違いない。

無窮とも思える敗者としての生活は、底辺を味わった者だけが知る慈悲の心と、不屈の精神を育んだが、同時に謀略や疑心を抱くという一面も潜ませたかもしれない。光秀を一人の人材として見たとき、どれが長所で短所というよりは、身に付けた全てのものが彼自身を形成し、そのスキルや経験が未来の成功につながっていると言えるだろう。

セルフブランディングに長けた人物

光秀が信長に仕え、信用を得るに至った経緯を考えると、その道のりは平坦ではなかった。
細川藤孝(ほそかわふじたか)と親交を持った光秀は、流浪の将軍・足利義昭(あしかがよしあき)に出会う。

義昭の兄・義輝(よしてる)は、混乱の続く京において三好・松永によって暗殺され、藤孝は当時出家していた義昭を寺から救出し、還俗させて将軍とした。

しかし、京の都は危険極まりなく、天下静謐(せいひつ)を実現するには地方の有力大名を頼らなければならない。当時京から近く信用できる大名として朝倉家に身を寄せていたが、小京都と呼ばれるほど発展した一乗谷において、宗滴亡き後の当主義景は武士としての気風に欠けており、いつまでたっても上洛の糸口をつかめずにいた。

そこで、桶狭間合戦で勝利した尾張の織田信長を頼ることにしたが、元々織田家は先代の信秀時代から足利将軍家には多大な寄進をしていたという経緯もある。事実、信長は一度上洛を試みるも、義昭が三好一党の襲撃を受けたことで断念していた。義昭も何度か信長に上洛の打診を行うが、美濃攻略を始めた信長とのタイミングが合わない。

斎藤道三の娘・帰蝶(きちょう)は信長の妻となっており、かつて斎藤家に仕えていた光秀とのつながりもある。実際には大河ドラマのような親交はなかったといわれるが、光秀はこの人脈を最大限アピールしたに違いない。光秀のプレゼンは藤孝を動かし、義昭は光秀の仲介を経て、信長の元へと向かうことが決まったのだ。

時はたち、信長は義昭を奉じて上洛に成功。一時は京の安寧を取り戻したかに見えたが、信長が美濃に帰国した隙をついて三好勢が義昭の滞在する本圀寺を襲撃する。襲撃といっても1万とも言われる軍勢であり、たちまち激しい籠城戦となった。しかし、本圀寺は城ではなく守備兵も2,000人程度と少ない。落城は目に見えていた。

ところが、光秀は一歩も引かず藤孝と共に持ちこたえ、織田勢による後詰め(援軍)もあって、ギリギリのところで勝利を収めた。到着した信長は光秀を大いにねぎらっている。

さらにその後、信長最大の危機であった“金ヶ崎の退き口”と呼ばれる撤退戦では、羽柴秀吉が殿(しんがり)で名を成したことで有名ではあるが、実は光秀も鉄砲を用いて殿として活躍しており、見事退却に成功している。いざというときに自ら体を張った忠義を示すことで、信長からの信頼を勝ち得たのだ。

光秀はこれらの戦いを通じて、鉄砲戦術、外交技術、築城術、忠誠、教養、慈悲、決断力など、いずれも信長にとって欲しかったスキルを持つ理想的な人材へと成長していった。

セルフブランディングに長けた人物

イラスト/©墨絵師御歌頭

これは、現代のセルフブランディングにも通じるものがある。
それぞれ単体のスキルを見ると、ナンバーワンではないかもしれないが、複合的なスキルを所有し、希少性と総合力で企業における独自のポジショニングを行うことができる。

織田家における光秀の躍進

朝倉家の重臣・朝倉宗滴は織田信長の才能を見抜いていたと言われている。

死に際して「今死んでも言い残すことはない。しかし、あと三年生き長らえたかった。命を惜しんでいるのではない。ただ織田上総介の行く末を見てみたかった」(続々群書類従、朝倉家録)と周囲に漏らしたという。

この話が史実かどうかは不明だが、光秀は足利義昭に仕えながら、日の出の勢いの信長にも仕えていた。

やがて、義昭が信長に反旗を翻して京から追放されると、光秀は藤孝と共に正式に織田家重臣となる。

【まとめ】-偉人に学ぶ-

「天下布武」を掲げる信長にとって、光秀は最も理想的な人材として登場したのである。
光秀の成功から、一つの答えが見えてくる。

・中途採用は即戦力。失業や不遇の時期こそ、スキルを磨くチャンスである。
・ナンバーワンでなくとも、複数のスキルを身に付けることで自身の希少性を増す。
・自らが輝ける場を求め、積極的に交友の輪を広げる。
・セルフブランディングで自ら活躍の場をつくっていく。

不遇の時期を乗り越えた光秀のような存在は、企業にとって最適な人材と言えるのではないだろうか。

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(寄稿/戦国魂プロデューサー・鈴木智博、イラスト/©墨絵師御歌頭)