戦国武将から学ぶVol. 2 あの名将もしくじった?「戦国時代の事業承継」
「戦国時代の勝者とは誰か?」と問われたとき、一番明確な回答は「徳川家康」ではないだろうか。家康は戦国時代を生き抜き、天下泰平の江戸時代を切り開いた人物である。
現代乱世は大企業や銀行ですらつぶれる時代であり、中小企業にとって生き残ることは本当に大変な状況である。企業を存続していくために、避けて通れないのが後継者選びではないだろうか。武田信玄や上杉謙信など戦国時代の名将たちは、この時代を超えた問題にどのように対処したのだろうか。調べていくと、そこには意外なほど陥りやすい「事業承継ミス」が残されていた。
父と子の確執が致命傷となった武田信玄の判断ミス
戦国最強軍団、「風林火山」の旗印として名高い「武田信玄」率いる武田家。実は信玄の躍進は、若いころに父の「信虎」を国主の座から追い出し、国を手に入れるところからスタートしている。
信虎は当時、長男である晴信(後の信玄)を冷遇し、弟の信繁に跡目を継がせようと考えていた。それに気付いていた晴信は、若いうちは爪を隠し、父に追放されないように無害を振る舞いながらも、次第に周囲の重臣たちの不満を聞いては味方に付け、信繁の協力も得て信虎を国外追放としたのだ。
武田家は武田二十四将など、重臣による合議制で方針を決定している。信玄が重臣の意見を聞き、それを採択するという意味では、現代における企業組織と同じである。平野が少なく、石高も商業も貧弱な甲府において、軍用道路や街道、河川の治水を整備し、常に国外出兵で版図を拡大した結果、戦国時代を代表する名将となった。
その信玄の長男「義信」は父に似て武勇もあり、母の「三条夫人」は「今川義元」が仲介する形で信玄に嫁いでいた。さらに甲相駿三国同盟(武田家、北条家、今川家による同盟)では、今川義元の娘が義信に嫁いでいる。武田家の繁栄は約束されたかのように見えていた。
時が経ち、信濃国諏訪の地を下した信玄は、諏訪家から諏訪御料人を側室として招き、その間に生まれたのが「勝頼」である。だが、そもそも武田家内では諏訪家との婚姻を快く思わない家臣も多かったようだ。勝頼はやがて諏訪家を継ぎ、諏訪四郎勝頼と名乗っている。
亀裂が始まったのは、今川義元が織田信長に桶狭間の戦い(桶狭間合戦)で敗れ、討ち死にしてしまったことがきっかけである。信玄は今川家との同盟を破棄し、駿河侵攻へと方針を転じる決断をした。
当然、義信は立場をなくし、国境の重臣にも不安と衝撃が走る。結果的に義信は謀反を計画したとして捕らえられ、やがて自害へと追い込まれた。いわゆる義信事件であるが、そこには後の武田四天王「山県昌景」の実兄である「飯富虎昌」が連座していた。かつて実の父を追い出した業ともいうべきだろうか、冷酷なまでの信玄の判断が招いた誤算にも思えてくる。
この時点で、四男の勝頼が信玄の後継者の立ち位置となる。すぐさま信玄は、信長の養女を勝頼の正室として迎え入れ、事態の収束を図っているが、一枚岩であった武田家において不安材料が残った。1573年、徳川家康を三方ヶ原の戦いで破った信玄は、西上作戦の途中で病に倒れ、帰らぬ人となった。
義信自害からわずか6年で勝頼は武田に復姓し、家督を継ぐこととなる。勝頼は信玄にも劣らぬほどの武人であり、父も落とせなかった高天神城の攻略に成功し、武田家は一時的に最大版図を築くことに成功した。しかしその後、あまりにも有名な「長篠の戦い(長篠合戦)」において織田・徳川連合軍に惨敗を喫する。武田家は信玄以来の名将と多くの兵を失ってしまった。
しかし、それは逆に組織再構築のチャンスでもある。勝頼にとって頼りになるも、一方で信玄を超えることができないハードルとして重臣たちの存在があった。信玄が神童としてかわいがったという真田昌幸(幸村の父)も若手のホープであった。ここで組織の若返りを図っていればよかったが、状況はそう簡単ではない。
外交面でも積極的に改善策を図ったが、徳川軍の高天神城侵攻に対して増援を派遣できなかったことは、武田家の威信を大きく失墜させ、国境の国衆は次々と離反していった。
1582年、信玄の娘婿でもあった「木曾義昌」が織田方へ離反したことにより、織田・徳川連合軍が領内へと雪崩を打つように攻め寄せてきた。
勝頼は新造していた巨大な城郭「新府城」を捨て、一族でもある小山田信茂の誘いにより居城の岩殿城を目指すも、信茂は既に織田方に通じてしまっていた。行く当てをなくした勝頼は、武田家ゆかりの天目山でわずかな供回りと女子を従えて最期を迎えたのである。
事業承継に必要なのは、準備・育成・理念共有
現代でも「骨肉の争い」は絶えない。武田家の事例を基に考えると、幾つかの真理が見えてくる。
・事業承継には十分な下準備と周囲への説得・懐柔が必須である。
・いつか来る事業承継のために、若手の育成と早めの人材登用で組織の若返りが可能な状況をつくる必要がある。
・利益や合理的判断のみではなく、大義名分や理念が伴わないと組織の結束につながらない。
・事業承継を終えた先代は、後継者の方針に口を出さず、見守る程度であるのがちょうどよい。
【まとめ】-偉人に学ぶ-
以上のことは、決して昔のことだからと済ませられる話ではない。武田家はあくまでも一例であるが、事業承継は現代でも十分に気を付けなければならない問題である。特に創業者のカリスマ性が強ければ強いほど、その後を継ぐ者のプレッシャーは半端ではないものである。
それを踏まえて、先代がやるべきことは「(承継までの)準備と次世代リーダーの育成」「自社の理念共有」の徹底だろう。そして何よりも、引き継ぐ相手の力を信じることに尽きるのではないだろうか。時代に応じて世の中が求めるものも変化していく。準備に万全を尽くし、その後はしっかり任せることが事業承継のポイントとなるであろう。
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(寄稿/戦国魂プロデューサー・鈴木智博、イラスト/©墨絵師御歌頭)