戦国武将から学ぶVol. 3 戦国大名に見るリーダーシップ論01 ―徳川家康・上杉景勝・直江兼続―

有限会社ベルウッドクリエイツ 代表取締役

戦国プロデューサー 鈴木 智博【寄稿】

戦国歴史による地域活性化やコンセプトデザイン、イベント企画やゲームの監修など、年間数多くの事業を行う。株式会社地域歴史活性化研究所 代表取締役/株式会社アルテクスアソシエイツ 取締役/鈴木商事株式会社 代表取締役。

若いころはイケイケだった?大器晩成型の徳川家康
部下に慕われ続けた?助けてあげたいリーダーとなった大名たち

戦国時代、大名は各領地のトップとしてさまざまな組織を率いていた。戦国期を通じて生き残りを図った各大名家のリーダーシップを知ることは、自社の理想的なリーダー像の形成に役立つに違いない。今回は、組織とそれを率いたリーダー像を掘り下げてみよう。

※本記事は、戦国プロデューサー 鈴木 智博氏に寄稿いただいたものです。

若いころはイケイケだった?大器晩成型の徳川家康

「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」という格言で有名な徳川家康は、幼少期に織田家や今川家の人質として忍従の生活を送っていた。今川家では、その器を見抜いた軍師「太原雪斎」によって帝王学を学ばせてもらえたことが、後の家康が成長するための原資となっている。また、家康はそのころから非常に勝ち気な性格で、我慢が苦手であったようだ。

青年武将となり、今川義元の有力な片腕として活躍を期待された家康だったが、桶狭間の戦い(桶狭間合戦)において義元が討ち死にすると、松平家の菩提寺に退き自害を決意する。しかしここで和尚に諭され、「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」の仏語を胸に、天下泰平の世を創ることを志したという。

この後も家康は、信長に負けじと精強な三河武士団を率いて領土を広げていくが、三方ヶ原の戦い(三方ヶ原合戦)において「武田信玄」を相手に大敗する。長期戦を避けたいと考えた信玄は、家康を野戦に誘い出すためわざと浜松城を無視して通過し、それに怒った家康は武士の意地とばかりに討って出たため、待ち受けていた信玄の大軍に負けたと言われている。(実際には、家康は負けを覚悟で領主たる責任を果たしたことで、その後、部下や民の信頼を得たばかりか、あの信玄に正面から挑んだ武将として評価されていくのである)

この時までは、家康はいわゆる現代のイケイケな中小企業の若社長のようであったが、重厚な信玄の用兵の前に完敗したことをきっかけに武田家の兵法や組織を研究し、三河武士団を改革して真の強さを身に付けたといわれている。敵を前に冷静に物事を判断し、見極める力。おごりや怒りを鎮め、勝つための戦略を巡らすという家康のイメージはこうして出来上がったのである。

1600年の関ヶ原の戦い(関ヶ原合戦)では、味方が劣勢の中、松尾山から動かない「小早川秀秋」に対してひたすら戦機を待った家康。その間、親指の爪を血がにじむほど齧り続けていたという。元来勝ち気な性格だった家康が、これ以上ないほど我慢をしていたという逸話である。晩年、家康は部下にもぜいたくを禁じ、勝ち組となった組織の引き締めを図った。江戸260年の基礎をつくり上げた家康のリーダーシップは、今の日本人気質のもとになっているとも言えるだろう。

徳川家康のリーダーシップのキーワードは以下のようなものである。

・怒りを抑え、冷静に物事を判断し、機を待つ戦略眼を養った
・あえてケチを演出し、部下にもおごりとぜいたくを禁じたことで組織固めを行った
・晩年は大政治家として江戸幕府の基礎をつくり、見事に2代・秀忠へと継承を果たした

まさに組織の強さと理想的なリーダー像を示し、後の3代・家光や8代・吉宗といった名将軍にその影響を残している。

部下に慕われ続けた?助けてあげたいリーダーとなった大名たち

三英雄といわれた信長、秀吉、家康などの偉大な人物に学ぶことはできても、そのまま理想とするには、あまりに格が違うと感じてしまう人もいるかもしれない。

戦国大名の中には、個性とも言えるさまざまな形でリーダーシップを発揮した武将がいる。「上杉謙信」の後継者となった「上杉景勝」は寡黙な武将として知られていたが、ただ寡黙なだけでなく、その威厳と佇まいは敵だけでなく味方からも恐れられていた。大坂の陣の際、敵からの矢玉が降り注ぐ最前線にあって、景勝が陣地に現れただけで上杉軍の諸兵は慌てて盾の前に出て、敵の前面に仕寄り(陣を前に進めること)を始めたと言われている。

その上杉家にあって名宰相といわれたのが、大河ドラマで「愛」の前立てで有名になった「直江兼続」である。彼は寡黙な景勝を、謙信公にも劣らない武神として演出することに成功した。もちろん景勝自身も無類の戦上手であったことに違いないが、お互いの役割をうまく演じていたのだろう。部下は景勝を慕っており、兼続はあえて上杉家の内外において進んで嫌われ役を引き受けることで、景勝のカリスマ性を高めてもいた。

部下に慕われ続けた?助けてあげたいリーダーとなった大名たち

上杉謙信は偉大な武将ではあったが、常に配下の謀反や離反に悩まされていた。圧倒的なカリスマ性はあったが、ナンバー2の存在がうまく機能しなかったことで、彼の理想に付いていけない部下が出てきていたのである。

景勝の武骨さを気に入ってか、配下には「前田慶次郎」や「上泉信綱」、「岡左内」といった真の武人たる人物が全国から仕官してきている。

その後、上杉家は関ヶ原の戦いでは西軍側に加担したため大幅に減封されるが、景勝と兼続は家臣をリストラすることなく雇用し続けている(実に75%減である)。強さや政治力だけではなく、この人のためならばと思える真の戦える組織になっていたのである。

上杉藩は後に極貧の時代も経験したが、名君「上杉鷹山」が財政再建に成功した。鷹山が理想としたのは景勝と兼続であり、長年藩内で奸臣(かんしん)とされていた兼続を再評価したのも彼であった。

上杉景勝と直江兼続に見るリーダーシップの要素は、以下の通りである。

・背中を見せるタイプのトップには、その方針を組織に落とし込むことができ、加えて実行力のあるナンバー2の存在が必要である
・ナンバー2の条件は公明正大、かつ常に企業の発展を考えて正しい選択ができる人物である

【まとめ】-偉人に学ぶ-

以上のことは、決して昔のことだからと済ませられる話ではない。武田家はあくまでも一例であるが、事業承継は現代でも十分に気を付けなければならない問題である。特に創業者のカリスマ性が強ければ強いほど、その後を継ぐ者のプレッシャーは半端ではないものである。

それを踏まえて、先代がやるべきことは「(承継までの)準備と次世代リーダーの育成」「自社の理念共有」の徹底だろう。そして何よりも、引き継ぐ相手の力を信じることに尽きるのではないだろうか。時代に応じて世の中が求めるものも変化していく。準備に万全を尽くし、その後はしっかり任せることが事業承継のポイントとなるであろう。

(寄稿/戦国魂プロデューサー・鈴木智博、イラスト/©墨絵師御歌頭)