失敗しても、負けても、いいじゃないか ~髙田延彦が伝える、立ち直れるヒト・逆境に強い組織づくりのヒント~

髙田延彦

髙田道場主宰・元プロレスラー/総合格闘家

プロフィール

今、困難や脅威に直面した状況に対して「うまく対応するチカラ」や、または逆境やトラブル・ストレスに対して「立ち直るチカラ」「負けないチカラ」そして「はね退ける力」とされている、レジリエンスが必要とされています。

プロレスラー・総合格闘家として、そしてイベントの仕掛け人として、日本の格闘シーンの一時代を築き上げてきた髙田延彦氏。その華やかなキャリアの裏には、数々の失敗や挫折があったと聞きます。

仕事、家族、人間関係、健康問題、金銭的な心配事など、全ての”はたらく人”に訪れる悩みに対して、逆境に幾度もぶつかってきた髙田延彦氏から、レジリエンスとは何かを学んでいきましょう。

※文中につき人名、名称は一部敬称略

失敗や挫折ばかりの人生――。でも得られた経験は貴重な財産に

d’s JOURNAL読者の皆さん、初めまして。髙田延彦と言います。

今回のオファーをもらった際、「この企画は私が話す内容ではないのではないか」と思ったのですが、せっかくご縁を頂けたのだから、これまでに私が経験してきたこと、思ったことを皆さんに精一杯伝えられる機会と考え、”出て”まいりました。どうぞよろしくお願いします。

さて、私 髙田延彦という一人の人間は、読者の年齢層によって、そのイメージするところが随分と違うと思います。例えば、UWFインターナショナルのプロレスラーとして北尾光司や武藤敬司(新日本プロレス当時)と戦った人?あるいはヒクソン・グレイシーと2度対戦した人?はたまた「出てこいやっ!」を叫ぶ変なオジサン?そのイメージはさまざまでしょう。

私という人間はいくつかのターニングポイントを経て今現在ここにいます。いくつか特殊な経験もしてきましたが、多くの失敗や挫折、負けを経験する人生でした。しかしその全てが貴重な体験として、今の私をつくっています。

私の半生を簡単に振り返ってお伝えしたいと思います。

幼少時代は、仮面ライダーやウルトラマンといった、いわゆる「テレビの中のヒーロー」に憧れる普通の少年でした。しかしある日、父親の隣で見ていたモノクロテレビに映っていたある人物にくぎ付けになります。当時ON砲の一人として人気も実力も絶頂期であった読売ジャイアンツ(巨人)の長嶋茂雄さんです。実はその時、野球のルールも選手名も知らなかったのに、なぜか長嶋茂雄さんに興味が出ていたのです。次の日私は早速父親に背番号3番のユニフォームをねだり、その日から野球漬けの日々を送ります。

あれだけ人を引き付ける魔力は何なのでしょうか。画面には多くの選手がいる中で、何も知らない少年にもその存在感が理解できるほどのスーパースターオーラ。

1974年10月に長嶋茂雄さんは引退されたのですが、ダブルヘッダーの第1試合後に引退セレモニーを見た私は、その日友達と泣きながら街路灯の下でキャッチボールをした思い出があります。その後、しばらくやる気もなくなり、自然と野球から距離を置くようになりました。

しかし、運命とは不思議なもので、ヒーローだった長嶋茂雄さんと入れ替わるように、金曜日夜8時のテレビ中継に現れたのが「アントニオ猪木」でした。戦後の日本プロレス界は、力道山というレスラーがその礎を築き、その存在感で人気を高めたのがアントニオ猪木です。瞬く間に日本の国民をとりこにした猪木さんのファイトスタイルは、当時の私にも鮮烈な印象を残してくれたことを思い出します。

その後、ライブで猪木さんを見ようと初めて観戦した際に、購入したパンフレットにレスラー募集の案内が出ていました。「俺もプロレスラーになれるのか!」と、まるで頭を雷に打たれたような衝撃を受けました。試合会場には私とそんなに歳も体つきも変わらないような若者たちが練習生としていたことも、私の背中を押してくれました。そして独学でプロレスラーを目指すことにしたのです。私が、いわゆる初めての就職先を決めた瞬間でした。

それから4年後、紆余曲折を経て新日本プロレスへ入団した私は、そこから皆さんも知ることになるキャリアを歩んでいったのです。

※髙田延彦「Instagram」より

一度目のキャリアチェンジは、新日本プロレスのレスラーから新設された団体に移籍したころでしょうか。プロレスがさまざまな偏見の目で見られ揶揄されるような風潮があった中、猪木さんはモハメド・アリ戦(*1)といった異種格闘技戦に挑むなど、「プロレスこそが”キング・オブ・スポーツ”である」ことを体現していました。そんな心意気や信念を少年時代から見ていた私が、プロレスのさらなる可能性を求めて総合格闘技の世界に足を踏み入れたのは、至極自然の成り行きだったのです。

日本のプロレスには約70年の歴史があります。アントニオ猪木というレスラーは、ブラジルでの力道山との運命的な出会いによって、日本に連れてこられました。そうした奇跡ともいえる「縁」の力によって紡がれてきた世界で、やがて私も一端を担わせていただき、現在は次世代のレスラーたちがそれを紡いでいます。こうした組織や個人の頑張りがあったからこそ、日本のプロレスは長きにわたり、世に根を張るまでに至ったのかもしれません。これはどの業界や産業にも言えることではないでしょうか。

(*1)モハメド・アリ戦…1976年(昭和51年)6月26日、新日本プロレスが開催した「格闘技世界一決定戦」。日本のプロレスラーアントニオ猪木と、当時ボクシング世界ヘビー級チャンピオンであったモハメド・アリによる異種格闘技戦は「世紀の一戦」とされ、日本国民の多くが固唾(かたず)をのんでテレビ中継を見守った

さて、ここまでレスラー・総合格闘家としての”就職””キャリア”について簡単に振り返ってみました。私の社会人としてのキャリアは約45年になります。私のことを知っていただけている人ならご存じだと思いますが、決してきらびやかな成功とは言えない、泥臭くて、失敗や挫折の多い人生を歩んできました。

人は失敗や挫折、くじけたり、転んだりしたとき、必ず立ち上がろうとします。これは乳幼児が転んだとき、何も考えずに反射的に起き上がろうとする行動と似ている、本能のようなものです。こうした「はね退ける力」「逆境にも負けない力」のことをレジリエンスと呼ぶそうです。現代社会でも、こうしたエネルギーが人や組織づくりに必要な時代となりました。

これから私の失敗エピソードを通して、何を得たのか、何を学んだのか、そしてどう立ち上がってきたのかをお伝えしたいと思います。人や組織の健全な発展のため少しでもヒントになれば幸いです。

企業理念は「賽は投げられた」?会社経営Uインターの立ち上げ、そして解散

さて私は、1980年に新日本プロレスへ入団してから、練習生を経て1981年5月にプロレスラーとしてデビューします。その後1984年に先輩レスラーの誘いで新日本プロレスを脱退し、新設されたレスリング連盟「UWF(ユニバーサル・レスリング・フェデレーション/旧UWF、第1次UWF、ユニバーサル)」に所属して、新たなキャリアを積んでいきます。その後、紆余曲折を経て、1991年にはUWFインターナショナルという会社を設立し、その社長に就任することとなりました。これが私の人生初の会社経営です。

前身のUWFでも同様ですが、この会社はいわゆる集客力の高いマッチメイクを提供して、その興行収入で売上を上げていこうというビジネスモデルです。

プロレスや格闘技イベントのビジネスモデルを簡単に説明いたしますと、プロレスビジネスの収入源は大きく分けると主に5つに大別できます。テレビなどの放映権料、興行チケットの収入、グッズ販売、スポンサー/広告料、興行権販売などです。

昭和のプロレス団体は、地上波のテレビ放送権料ありきのビジネスモデルでしたが、私が現役だった平成に入ると前述のUWFのほか、地上波の放送を持たない団体が数多く登場してきました。そうした団体は、興行チケットやグッズ収入のほかに、VHSなど映像商品の販売、さらにCS放送といった衛星放送チャネルに活路を見いだしていきました。

ちなみに現在では、マーケティングなどの概念を経営に取り入れ、試合の動画配信や海外への番組販売、IP(Intellectual Property/知的財産)収入といった、興行チケットとグッズの販売がメインでありつつも、きわめて現代的でいて安定したビジネスモデルにシフトしている団体もあります。

私が経営したUWFインターナショナルの企業コンセプトはさしずめ「賽は投げられた」でしょうか(笑)。とにかく会社として、団体として求められる、さまざまな強豪選手や団体とのセッションを企画していきました。

ですが、基本的に他団体や選手に対して、パフォーマンスとは言えやや挑発的なスタンスでいたため、ファンなども含め各所での反発や批判も大きかったようです。この手荒い手法は現代では不可能でしょうね。良くも悪くも多くの話題を提供した会社(団体)となりました。目まぐるしい変化に対する柔軟性や、明日どうなるかわからないストレスに向き合う耐性も、この時代に身に付けていきました。

かなりの無茶をしていたのですが、当時の我々は「やれることは何でもやる」ということで、「集客につながることは積極的に、まずアクション」を経営ビジョンに掲げて前に進んでいきました。振り返ると本当に面白い体験だったなと思います。そんな混沌とした中で生まれたのが「新日本プロレスVS UWFインターナショナル」の企画でした。

しかしながら諸々の事情により、1996年にUWFインターナショナルは解散してしまいます。私の力が及ばなかったのはもちろんですが、この一連の流れは自分史の中で大きな1ページとなりました。

こうした経験を経て邂逅することになったのが、ヒクソン・グレイシー(*2)という柔術を極めた一人の格闘家です。彼との関わりにより私の人生はまたも大きく変わることになったのです。

(*2)ヒクソン・グレイシー(Rickson Gracie、1958年11月21日~)…通称、400戦無敗の男。ブラジルの柔術家および総合格闘家。日本では髙田延彦や船木誠勝など著名なプロレスラーや格闘家などと対戦した。現在は引退。

ヒクソン・グレイシー戦を経て学んだ「立ち上がり方」「はね退けるチカラ」

私、髙田延彦を語る上でもっとも代表的なエピソードと言えば、「ヒクソン・グレイシー戦」でしょうか。当時総合格闘家として無敗を誇っていたブラジルの柔術家のヒクソン・グレイシーという人物と、私は2度対戦(PRIDE.1<1997年10月>、PRIDE.4<1998年10月>)して、そのどちらの試合でも敗退しました。

業界やプロレスファンから深く失望され、大バッシングを受けたことは今でも鮮明に覚えています。観衆の前に出てパフォーマンスを行うプロレスラー・総合格闘家でしたから、日ごろの誹謗中傷やバッシングなどには慣れていたつもりでしたが、やはりあの日のあの出来事は私にとっても特別な経験です。私は当時、未来の時間がストップした感覚で、自分の目の前の道がふさがれた思いでいました。

SNSはおろかWebなど通信回線がまだそれほど発達していなかった90年代でさえ、私の耳に届く誹謗中傷やバッシングは、日本中の人たちが発信しているのではないかと錯覚するくらいの勢いに感じました。そうした声に対して耳をふさぐように2カ月間ほど自宅に引きこもっていました。

しかし、そんなどん底の状態からでも、私は立ち直ることができたのです。

■ なぜ、どん底状態からでも再び立ち直れたか

立ち直るきっかけですか?試合後に努めて明るく振る舞い、そして接してくれた妻・向井亜紀の存在がもちろん大きいのは事実です。

ですが、ある日、ふと外出したくなったことがきっかけだったと思います。大きな失敗や挫折を経験して誰にも会いたくない、外にも出たくないと思うことは人間なら誰しもあるでしょう。そうした自分自身を見つめ直す充電の期間はもちろん大事です。例えば、大きくジャンプするためには、膝の屈伸が必要になるため一瞬深く沈みます。こうした状態は悪いことばかりではありません。

しかしいずれ、普段の生活に戻り生きていかなくてはなりません。次につなげなければなりません。そうしたとき、どうやって立ち上がるのか――。実は難しい技術も思想も必要ないのです。

外食がしたくなった、人と話したくなった、朝日を浴びたくなった、そのようなきっかけで十分です。自分のしたいことに忠実に行動すればいいのです。それがどんなに些細なことでも。それを積み重ねていったとき、ある日、平常に向かって少しずつ前に歩を進め始める自分に気づくのです。

周囲の家族や仲間たちのサポートももちろん、職場であれば上司や同僚の助けも必要でしょう。ですが、本人自らが小さな一歩を踏み出すことが必要なのです。変に気遣ったり、サポートを過剰に厚くしたりする必要はありません。じっとその人が一人で立ち上がる姿を見守ってあげるだけでもいいのです。

人生は、回転寿司と似ています。良いネタが自分の前に流れてきたら、あまり考えずにさっと手に取るでしょう。それと似ています。成功のチャンスも失敗のきっかけも突然目の前に現れます。私はこの「即決」を大事にしています。結果、大きなターニングポイントになりましたが、そもそもヒクソン戦を取りに動いていなければその後の人生はまったく違う形になっていたでしょう。

もちろん失敗を予測して、寿司ネタを取りに行かない「センス」も大事です。ですが、自分の意志で人生を切り開きたいと思うのなら、悩むことなく感性・感覚で即決するのも良し。それもひとつ、人生に対する満足感や自己肯定感も変わってきますから。

負けないために必要なこと、それは「いつもの自分」でいられること

さて、私はなぜ自分の将来を左右する大一番の舞台で、それも2度も敗退してしまったのでしょうか。それは相手が強い、自分が弱い以前に、自分の土俵で勝負ができなかったからに他ならないのです。つまり勝負する前から私の負けは決まっていたと言っても過言ではない。

ヒクソン・グレイシーという格闘家は、柔術という武道のプロフェッショナルです。相手を押し倒して馬乗りになり、攻撃を加えて戦闘不能にさせることに特化した、いわば路上戦闘のプロフェッショナルです。

皆さんにも経験があるかもしれません。人生の掛かった大事な商談があるとき、どうしても入りたい企業の面接があるとき。そんなときに限って平静でいられなくなる。普段しないような準備をしたがために、失敗してしまったことが――。私も同じでした。

勝手に対象を巨大化してしまい、いつもと違うことを行うことで、平静が保てなくなっていく――。試合が近づくにつれ日に日に私の中で、身長178cmのヒクソンが3mの巨人のように大きくなっていきました。そんなネガティブなメンタリティで迎えた試合は、私の持ち味など影もなくあっけなく敗退してしまったのです。

私は60歳を目前に柔術を習い始めました。「こんな技術があったのか」と日々新鮮な驚きの連続です。柔術の奥深さを知った今だからこそ改めて思うのです。あの日負けたのは当然だった。それは普段着の自分で勝負しなかったから。戦略的に準備をした上で、自分らしく、心を奮い立たせて臨んでいくことが大事だったのです。

では、そんな負けない自分を日々つくっていくためにはどうすればいいのでしょうか。

また会社運営や組織デザイン、人事・採用に携わっている方なら、採用や面接のほか、思いもよらない配属や辞令、措置など人事考課を経験することがあるでしょう。逆境にめげずに訪れた境遇や環境に対処できる人材を見出し、どう活躍してもらうのがベストなのでしょうか。

そのヒントは…、また次回にでも。

【今回のワンポイント講座】
レジリエンスが高い人の特徴とは?

● 発想や考え方が柔軟な人
● 自分にも他人にも優しく、周囲と協力・協調関係を築ける人
● 自分の良い面を自身で認識できる人
● 一喜一憂せず、物事に向き合える人
● 困難に直面しても、すぐに諦めない人 など

企画・編集/鈴政武尊・d’s JOURNAL編集部、撮影/シナト・ビジュアルクリエーション、制作協力/株式会社レプロエンタテインメント

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